亡くなったとされる日から2週間ほど経過して、同業者から訃報が来ました。
思い返せば、故人(享年59歳)から3か月ほど前に電話をもらった際、「入院していたそうだね」と言うと彼は「もう大丈夫だ」と強がっていました。
これが最後の会話だったことを知らされると、とてもつらい気持ちになりました。
訃報を受けた後、ひと呼吸おいてから故人の奥さんに電話しました。「差し支えなければ、お参りさせてほしい」と伝えると「コロナ禍でもあり、お気持ちはうれしいが遠慮したい」ということで、この電話で弔問が終わってしまいました。
故人は、ギフト販売店の社長であり、三重県ギフト小売業協会で「屋外啓蒙看板」の制作に携わったメンバーなのです。
伊藤嘉章
音楽関係の仕事のため私が、事故現場に近い東池袋4丁目の安アパートに住んでいたのは1985年でした。
母・子が亡くなり9人が負傷した池袋暴走事故は、昨年の4月19日に起こりました。
この日開かれた裁判では、加害者が罪を認めなかったことに批判が殺到しました。
一方で、家族の苦しみに目を向けると、2005年に犯罪被害者等基本法が施行されたことで、家族を奪われ、絶望のどん底にいる被害者家族への支援が少しは進んだそうです。
その裏で、この池袋事故を含めて加害者家族は、誹謗中傷・偏見・差別にさらされて人権が守られず、9割の人が自殺を考えると言うのです。
加害者家族も、被害者家族と同じように守る必要があるのではないでしょうか。
伊藤嘉章
コンシェルジェを起業前に15年勤務した会社の、当時の社長(享年75歳)を見送りました。
葬儀が8月上旬だったので、気が付けばもう49日が済んだかなという頃、百貨店から「香典返し」が届きました。
中身は「百貨店共通商品券」だったので、当時の社長を偲んで、本麒麟(ビール系飲料)に交換しました。
社長とは、酒場に行ったことは少ないですが、出張帰りに新幹線車内で缶ビールを酌み交わしたことが回数も多く、強く印象に残っています。
思えば、私たちが起業してから同じ15年が経過していることが、とても感慨深いですね。
伊藤嘉章
テニスの全米オープンで、大坂なおみ選手が優勝しました。彼女は不当な暴力で命を落とした7人の名前を書いたマスクを着けて試合に臨み、人種差別に抗議したのです。
アメリカという国では、日本では考えられないような不当な理由で、警察官や自警団(と名のる市民)に、社会的少数者(主に黒人)が殺されています。
警察官の職務ルールも、公平であるべき裁判ですら、白人有利・黒人不利の社会だと感じます。
多くの日本人は、「海の向こうの他国のできごと」としか思わないでしょうが、私自身はニューオーリンズにいたころ、同じ楽器を演奏する黒人の仲間がいて、他人事とは思えないのです。
今後も、大坂なおみ選手の人種差別撤廃に向けた活動を応援したいと思います。
伊藤嘉章
住職の体調が心配だったので、父の七回忌法要は、叔父・叔母に同意を得て、家族4人(私・私の妻・長男・次男)だけで菩提寺で勤めました。
遡ること13年前、私の父は兄(→長男=私の伯父)が欠けたため急遽、伊藤家の当主を受け継ぐことになりました。
その際、①菩提寺(先祖の供養を託すお寺)を伊藤家の本来のお寺に戻す ②伊藤家のお墓を、四日市市営墓地に移設する という2つの課題に着手しました。
父が市営墓地を入手したのは1982年でしたが、次男なので分家として新設するつもりで確保していたのです。
1985年に祖父、1989年に祖母を送った際、伊藤の本家は亀山市にあり、葬儀もその後の法要も亀山市のお寺にお願いしてきました。今回、菩提寺をこの亀山市のお寺から、津市にある本来(父たちの生地)のお寺に戻すことを、父と父の弟・妹6人の総意で決めたのです。
またお墓の場所は、津市の本来の菩提寺の地所でしたが、小高い山のてっぺんで高齢者にはとても負担だったので、住職に改葬許可をもらい、2007年4月、四日市市営墓地に新築・改葬が完了しました。
5代にわたる先祖を供養するため、それぞれの名前を刻まず、「先祖有縁一切精霊」としました。
伊藤家の当主としての務めを果たした7年後の2014年8月13日、私に当主を引き継いで父は旅立ったのです。(享年84歳)
伊藤嘉章
合祀方式の墓(○○家の墓ではなく、他家の人と同じ石塔に納骨するタイプ)に妻の父を納骨しました。
妻の実家の菩提寺(故人・先祖の供養を託すお寺)に新しくできた合祀墓です。
参列したのは、妻の母・妻の姉・妻・私の4人です。
思い返せば10年ほど前、妻の父と母は確保していた民営の墓地を手放しました。
というのは、近ごろ後継ぎが無くて「墓じまい」が日本中で増えていますが、ご多分に漏れず妻の家も娘2人で、ともに他家に嫁いだので(妹が私の妻)単独の墓を建てても引き継ぐ子がいないことに気づいたのです。
昨年、妻の父(享年86歳)が亡くなり、今年の2月に一周忌法要を終えた後、家族で相談をして、この合祀墓に納骨することが決まりました。
菩提寺の管理なので、そのまま永代供養で心配がなく、母の自宅から近いのでお参りがしやすく、いずれ母が亡くなる時の納骨準備もできている、という3点が決め手でした。
伊藤嘉章
遺族の大きな悲嘆に触れ、コンシェルジェを起業する動機となったのが、2005年に起こったJR福知山線脱線事故です。
思えば、40年前に所属していた鉄道研究会での4年間が、移動手段としての鉄道の魅力を知り、関心を深めるきっかけになったのでしょうか。
私は事故当時、2年足らずの期間ですが、香典返しの会社で外交セールスマンでした。
翌年の起業につながる仕事でしたが、故人はこの時すでに75歳以上の高齢者ばかりで、遺族の悲嘆に直面する機会はほとんどありませんでした。
しかし事故・災害による死は悲嘆そのものであり、107人が犠牲になったこのJR福知山線以前にも大きな鉄道・航空機事故は何件もあり、中でも日航ジャンボ機墜落事故(1985年)は520人が亡くなっているのです。
JR福知山線事故以来、私は人が亡くなるニュースを聞き流すことができなくなりました。そして事故から7年後の2012年12月に、初めて尼崎市の事故現場へ慰霊に行ってきました。
今年は15年目の慰霊式がコロナウイルスの感染拡大で中止になったそうですが、鉄道・航空機の安全を祈り続けたいと思います。
伊藤嘉章